本当は何も分かっていないということ

こんにちは、最近どこかで目にした文章のなかに、「大半の人は本当は何も分かっていない。分かっているように話しているだけだ。」というのを見かけた。アメリカで勉強し続けて数年だがこの文章が心つに強く突き刺さったので備忘録としてブログに考えを記しておきたい。

本当は何も分かっていない。

これはおそらく、この世の法則や事実などを自分で理解していないと言い換えることができるだろう。噛み砕いて言うと、Newspicksで著名人が「OOOOはXXXXXだから〜」と言ってたとして、それを”知識”として自分の中に落とし込み「OOOOはXXXXXだから〜」と自分の意見のように言うことである。つまり、本当に物事を理解していない人はOOOOがXXXXだという根拠を落とし込んでいないのではないだろうか?OOOOがXXXXということになるには様々な原因があるにもかかわらず、OOOOがXXXXという事実を盲信してしまう。しかし、この発言は論文などの信頼度が高く、またピアレビューされているものではない。それを検証せずに信じるということがどれだけ愚かなことはアメリカの教育では非常に重要視されている。例えば、エッセイやペーパーを書く際の引用でも、メディアの種類や媒体でクラス分けがされており信頼度が低い引用ばかり使用することは自分のペーパーの信頼度に影響する。

実際に自分で思考し検証することが大切

しかし、「OOOOはXXXXだ」ということを己で検証することは非常に難しい。しかし、自分の知識として落とし込むときにはこの段階が必要だと思われる。つまり、根拠などを度外視、または母数が少ないサンプルの経験則によって書かれた自己啓発本などは信頼するには至らないのである。よって、このような表面的な知識は身につけるべきではなく、本などの校閲され、且つ信頼度が高い著者から出ている媒体から学ぶ癖をつけることが非常に重要なのではないのだろうか?いや、普通の人はそうしているのかもしれない。SNSなどは目を引くタイトルなどでPVを稼ぐ手法などが共有されており、情報の密度や質の低下が著しいので知識の収集場所として活用するのは難しいのではないだろうか。(思考の入り口としては良いと思う。)

教養

先日はてぶで話題になった「これは水です」は非常に興味深く、教養を様々な物事を様々な角度から思考するための学問として定義している(ように思える。)そう考えたときに、今回のような知識の獲得を教養として考えるとはできない。つまり、大学の授業においても高めのGPAを取るため勉強よりも、自分の中に祖先たちの積み重ねた学問を落とし込み、思考の糧として活用することが大切なのではないかと思う。なので、あと1年半の留学生活、もう一度このことを心に止めて勉強していきたいと思った。

これは水です